昭和41年08月02日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火が灯らず。火が灯らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり、信心とは、我心が神に向こうのを信心というのじゃ」とこう。」

 まぁその中に、まぁ色々、中からいろいろな事を分からせて頂きますですね。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし、とこう。神徳の中におっても、氏子に信がなければおかげはなし、と仰る。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火はともらず。灯らねば夜は闇であり。信心がなければ世界は闇であると、おっしゃっておられますですね。どうでもそのおかげを頂く為に、神徳の中にあってもと仰る、神徳の中にあるという事を分からせて貰う。
 話を聞きますと、神徳の中にある事が分かるんですけれどね。暑い寒いがこうしてあるという事なんかも、生きた天地の働きですもんね。もう、本当にそうなんです。もう何を考えましても、何処を見ましても、神徳の中である事が分かる。神様の、そうした働きの中にある事が分かるんだけれども、もう氏子に信がなければとこうおっしゃる、信がなければ、そのそれを。
 おかげを神徳の中にあってもおかげが分からんと仰る。ですからもう分かっただけではいけない、と云う事が分かるです。矢張り信がなければおかげ、おかげの中にあぁやって、本当に、まぁ例えていうならば、お湿りの中に、もうそこにまで干天続きの中にお湿りがあると。有り難い。まぁそれは大体、あれはよか修行じゃったというて、お互いそんな、干天続きの言わば、お湿りのない暑い日の時には、有り難う御座います。
 その所がです、自分の思う様になればおかげであり。思う様にならなければ、おかげではないと言うのであっては。私、本当な事じゃないです。干天は干天。お湿りはお湿り。どちらにあってもそれをおかげと感じられれる、そりゃ皆さんが何時も頂いておられるから分かっておられる訳ですよね。降ってもおかげ、照ってもおかげと。なるほど理屈を聞きゃそう所じゃない。照るばっかりでもいかんし。
 その降るばっかりでもいかんのだけれど。もうそこんところの、もう降っても照ってもおかげと云う様な事は分かるけれども、氏子に信がなければです、神徳の中におってもおかげが分からずと仰るが、確かにそうである。だから、それはカンテラの中に油がいっぱいある様なものだけれどもです、芯がなからなけりゃ火は灯らない。火がともらなければ明るさがない。芯が灯らなければ夜は闇なり。
 信心なければ世界は闇なり、とこうはっきり仰っておられますですね。信心がないならば、もう世界は闇だと。世界を闇にしておる人がどの位多いか分かりませんですね。いわゆるその、「この世は苦の世、苦の世界」という訳なんです。ですから信心とは、我心が神に向こうのを信心というのじゃ、と仰っるので御座いますから。どんな場合でも私は心が神様に向こうておらなければならん。
 背中を伝う、だらだら流れるような汗の中にあっても、自分の心が神様に向こうておるとです、だらだら流れておると言う事が有り難い。それはですね、その、思い変えと、思い変えというですか、なら例えば昨日の月次祭なんかの時にはですね、もうそれこそ、もう本当に、ここのお広前でお説教頂いておられる方達の方を見るとです、もうそれこそ、もう汗だらだら流しておられます。
 先生方なんか神饌をなさっておられますともう、汗が額からすたすた落ちとります。けれどもやっぱり、拝みよる方も一生懸命、奉唱なさる方も一生懸命ですからですね。もう、まぁそう感じん訳じゃないでしょうけれども、その実際感じさせん位に、それは自分の心が、神に向かっておるからなんです。皆さんの心が、神様に向かっておるからあれなんです。それはまぁ、そのいい方はどんなんでもありますもう温泉に行っとると思えやよかち。風呂に入っとるごたる。
 もうあの人の後ろに座っとったら、もう本当に、そのお風呂に入っとるごたるっと思っとる。それを唯、そういう風に言い紛らかしたっちゃ詰らん。それが本当にです、私共の心が神様に向かっておる時には、額から汗が流れておる様であっても、矢張り有り難いと。もうそれこそ、下着を絞るようにある。所がその、自分の心が神様に向かっていないとです、もうそれがもうじゅつない、しるしいと云う事だけしかない。
 我心が神に向かうという。ですから、ならお祭りを奉仕したり、又はお祭りを拝んだりしておる時だけが、神様へ心を向けておるのてはなくてです。何時も心に神様を向けておると云う事。例えば腹が立つ様な事がある。もうすでに、はぁ心を神様に向けていなかった証拠ですよね。後から考えて、本当おかげじゃった。又は、もう腹の立っとばじっと辛抱をするち。もう手後れっていう感じですよね。
 ですからもう本当にそこん所をです、私共日々あの今日も何遍腹が立った。何遍じゅつないと思うたと。そういうたんびに、あっ自分の心が神様に向かってはいないなぁ、神のおかげを頂いていかなきゃ出来ん。すぐ自分の心を神様に向けて行く所の稽古を段々させて頂く中にです、心がいよいよ神様に向かいきってしまう様な、まぁおかげにもなろうと。私共でもそうなんです。
 ですから、信心とは、我心が神に向こうのを信心というのであり、神徳の中にあっても、氏子にその信がなかったら、おかげはなしとこう仰る。例えば申しますように、暑い、けれどもやっぱ有り難いんだという、そういう心におかげはあるのです。カンテラに油がいっぱい溜っておりましても、氏子に信が、その芯がなからなければ火が灯らん。明るくならない。芯が、自分の心が芯に向かっとかなければならない。神様に何時も向かっとかなければならない。
 そこに何かがあるたんべんに、ポッと火が点く。言わば腹が立つ様な事がある、あるならあるたんべんにポッと火が点く。有り難い却って。どうぞひとつおかげを頂きましてですね。ここの御理解21節の、何処でも良いです皆さんの心にとまった所を、自分のものにさせて頂く為に、今日そこんところに精進をなさったらどうでしょうか。もう一遍、何と言いましょう。
 信心せよ、信心とは我心が神に向こうのを信心というのじゃと。神徳の中におっても氏子に信がなければおかげはなしと。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火が灯らず。火が灯らなければ夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。どうぞ家の中を闇にしない為に、まず、世界を闇にしない為に、まず、私自身の心の中に火が点じなければならない。いわゆる自分の心が神に向こうておらなければならない。
 そこに何時でも火が点じられる。芯がある。信が芯に向かっておる。私共が神様へこう向かっておる時、もうそれこそ茹だる様な、お風呂の中にある様にあっても、その中に何とはなしに有り難いものを感じる。額から汗がすとすと落ちておっても、心が神様に向いておるから暑さを感じさせんで済む様なおかげ。そういう一つおかげを自分の心の中に、頂かせて貰う。その心に、いわゆるおかげはなしと仰るですね。
 信がなければおかげはないと、神徳の中にあっても、それをおかげと感じきらなかったら、おかげはないと仰る。感じる事、その事もおかげなんですけれどもです、その感じるその心におかげは一切あると云う訳な訳です。繰り返して考えてみれば。暑い中にでも、例えば有り難い、分かるその心。それを感じる心におかげがあると仰る。神徳の中にあっても、氏子に信がなからなければおかげはなし、と仰る所当たりの事はです、私共がおかげを頂きたいので御座いますから、どうでも自分の心をいよいよ神様にうち向けさせて頂く。おかげを頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。